2020.09.06
気怠い。最近、気怠くて仕方ない。簿記の試験まであと69日しかないのに、なんだってこの倦怠感、、
例のあれか?頃な?
夏も終わったのだから、何かが見違えるように変わるものだと思っているけど、
それは幻想なのかもしれない。
セミファイナルも終わり、台風のはしくれを受ける程度で、東京はなんとか9月最初の週末を終えようとしている。
先日、駅まで迎えに来てくださったイケメンの彼氏さん。
家までの道すがら、バケツをひっくり返したような雨が急に降ってきて、四方八方からホースで水を当てられたように全身ずぶ濡れになってしまった。
(スミマセン…)
自然がカマしに来たので、もおお手上げ状態。
雨が過ぎると、秋の空は美しい。
湿気がない分、カラッとしていて、たまにCG合成されたような空だったりする。
もう少しすると、私の大好きな夕焼け空が見られるとあり、それはそれで楽しみである。
31歳になり、大人といわれる括りに属していて、ある程度、世の中を知ったような気もする。だけど、それゆえに何も知らない。
ネットが普及したことで、世の中はどんどん明るみになっている。
タブー視されていたことが、カミングアウトされて、語る内容に抵抗感を抱かなくてもよい風潮になってきた。
生きにくかった人達には水を得た魚のように見える。
「個」の時代、多様化する時代、情報もたくさんあり、私はどんな目線で時を過ごすべきか悩ましい。
〜知ってる?
と聞かれることが苦痛になってきている。私の中にも変化はあって、あったはずの好奇心や興味が失われつつある。
若い時は、なんでも知りたくてすぐに情報収集していたけれど、
今はあまりにも情報が多すぎて、一つ手にとったら、掘り下げるものが深そうだと思うと、1ミリも見ようと思わない。
人は、ある程度自分が見える範囲を知ってから知りたくなるはず。
その心理が働かないと、無理なのだ…。
掘り下げる許容範囲を超えてしまうと、知らんし、興味の対象ではなくなってしまうのかも。
対人関係においても、変化はあって、自分は何者であるか?出身や学歴や、キャリアとは別に、自分の興味関心ごと、SNSでどう魅せたいか?どうみられたいのか?まで、しっかり言語化できていない人というのは、世の中から淘汰されてしまうのだなぁと思えてきたこの頃。
写真映りとか、こだわりがないと人間扱いされないのかな…。
私は、着飾ったり、流行りには興味がないし、カテゴライズされるのも好きではない。
(いや、好きだけど、生活の中では重要視していない)
そうかといって生き方に対してこだわりがあるわけでもない。自分の中でロックな部分は消えかかっている。
リスペクトしているのは、猫だったりする。
あの、自由感、気まま感、何も着飾らないのに、圧倒的に可愛いフォルム。うるさくないし、そーっと現れて、甘えたり、いなくなったり、にゃーって何考えているのか分からない。
それ。
私は、意識的にそうしているわけではないけど、己を見つめてみると、究極的に、道をたらたら歩く野良猫がしっくりくる。
先日、とあるイベントを見学してきた。華やかでキラキラしていてすごく良かった。
しかし、疲れた。
なぜなら、人の数に耐性がなくなってきているからだ。
私は普段から行動範囲が狭い。
だから人との付き合いも極端に制限されているため、久しぶりに、100人規模の人の数にはクラクラしてしまった。
発信力、影響力、自分とは何か?それらを雄弁に語れる人は強い。
人間社会は、少なくとも都会で生きている限りは、上記のような自らを語る物語性が好まれるようです。
それができない自分を感じつつ、別にいいじゃにゃいか?と開き直っている日曜日の午後でした。